今日は、ある方とのカウンセリングの日だったのですが、その話の中で、気づいたことがありました。
ちょっと皆さん、小学生の時を思い出していただきたいのですが、
小学生の時は、悩みはそれはそれでありましたけど、結構、素直じゃなかったです?
極端に「あの人が嫌い。」とかいうのもそんなになかったですしね、
そして、先生の言うことも、はいと素直に聞けていました。
でも中学生になって、先生に対しての批判も強くなってきたし、ああるべきこうあるべきってね。
なんだろう、中学生って、素直は素直だったのでしょうけど、何か理論めいた、屈折した物事の見方をするようにもなっていたような感じもします。
思春期の独特な気持ちの不安定さに加え、成長の一環だったでしょうけどね。
それがそのまま高校、大学へと進学し。
特に大学生になると、論文などで「ここが問題点。ここを改善せねば。」というそういう問題提起を書いていくほど高評価されます。
どんどんと、いつの間にか問題点を見つけることが当たり前かのようになってしまっていますね。
小学生の時は、比較的素直だったのに、いつの間にか理論めいた、そして、コスパ・タイパ重視な見方をするのが当たり前になっているのですよ。
そして、そう言えば、かつて、聞いていました。
日本の教育は、どちらかというと、左翼思想に偏っている、といった評論家がいらっしゃいました。
確かにそうかもしれない。
学問の上では、もしかしたら、問題の改善に色々と探ることはいいことかもしれませんが、でもこれ、人間関係でこれをしてしまっていては、いい人間関係は築けませんね。
よくあるのが、これがその人とパートナーとなっていた時。
何か理論で言いくるめられるのが、本当にこれ、傷つくのですよね。
それが本当にその人のためを思っている発言ならばいいと思うのです。
でも、「相手に勝とう、論破しよう」、というところが狙いになっていることが多く、とにかく、理論で勝とうとすることが目的になっている場合が本当によくあります。
それって、そこの問題の解決どころか、勝つことが目的だから、問題解決どころに至らないでしょう。
これも、教育のせいからきている場合もあるでしょう。
「相手の意見も汲みながら、でも自分の意見も大切にしながら、どこまで譲歩をするか」、
ここの相手の気持ちといかに調和させるか、という気持ちが、パートナーとより良い関係を築くために
必須事項になると思うのです。
この私自身も、1回目の結婚は、相手がとても頭のいい人でしたから、もう私が何を提案しても、
「ダメ」と否定をする人で、そして自分が頭がいいと思っているのか見下されている感じがしました。
これが最初はいいのですよ。笑い話で済まされていたのですが。
そして本人も、そういう風な言い回しの癖を自分がしているということに気づいていなかったでしょう。
ずっとこの教育できていたから。
それをいうならば、私自身も同じ教育を受けてきていますから、私自身も気づかず、勝とうとなっていたかもしれません。
これは相手ばかりを責められませんね。
でも、それをお互い気づいていないのが問題だったと思います。
でも年月が経つごとに、この否定され続けることに耐えられなくなっており、そして、離婚した経緯があります。
そして、ここで何を言いたいかというと、もう私たち等しく、「とにかく反対をしたい、論破したい」という、思考になっているということ。
でも、これ、私、戦後の教育だと思っています。
「勝ちたい」気持ちが、人間関係の支障をひき起こしていないか?
この感情が、人間との関係に大きな歪みを作り出している可能性がありますね。
少し振り返ってみて、「自分も相手に勝ちたいと思っていないか」、と振り返ってみて、
そして、あれば、自分で自分の内面を見つめて改善することもあり。
もし難しければ、インナーチャイルドヒーリングで、そこのエネルギーを取っ払うこともできます。
小学生の頃のあの素直な自分に会うことができるでしょう。
やっぱりこの国は、調和の国ですから。相手にどこまで譲歩ができるか、ここでいい人間関係が出来上がっていく国であり、民族です。
ぜひ、競争社会で育ってきた自分を、少し癒してあげることも、一つのご提案です。